superaho’s diary

犬も食わない捻くれ+ひきこもり系ポンコツBBAの緩い駄文。

ネガティブ・ケイパビリティ

答えの出ない事態に耐えうる力

(Wikipediaより抜粋)

だそう。

 

仔細未確認だけど。

 

人より、所謂、学歴に通じる学問や思考力、知識や情報量、論理的思考力などが劣っていると感じている(だけじゃなく、結果も出ている)私。

 

世の中が、自分だけでは結論も、結果にも関与出来ない、沢山の不思議に溢れている。

 

好奇心だけは旺盛なので、自分が興味関心がある問題をなんでも知りたがる。

 

その性質の為か、一般的な人よりも、

答えが出ない事態にも割と耐えうる力はあると思う。

(アホだから、直情的で脊髄反射的で、あんまり無いと思っていたけど)

 

いつどこで大災害が起こるか解らず、戦争に巻き込まれる可能性が0と思えない状況の中で、

現実を冷静に受け止め(何処か諦め?開き直り)日常を維持し続ける。

という、日本に住む人なら誰でもが大なり小なり、影響を受けざるを得ない、予測不能な未来(ホントはどこでも誰でも当たり前)への備えをどのように捉え、日常を過ごすのか。

答えの出ない事態の中で、鍛えられている部分があるんじゃないかと思う。

 

コロナ禍も、自粛警察や、マスク警察、反ワクチン、ワクチン集団圧力などは、あったけれど。

 

他国よりも、人に迷惑をかけない。という共同体意識の強さが、政府に言われるよりも前に、動いていた事を思うと。

 

日本在住である時点で、他国の人より、ネガティブ・ケイパビリティはあるんじゃないかと思う。

 

また、今、国の政策によって戦争や貧困に陥っている中にある方々も、自ずと、その力がついているだろう。

 

一般的には、精神力だったりする形なんだと思う。

 

先が見えない状況の中で、耐える力は、私には無いと思っていた。

すぐ、精神的にやられてしまうから。

 

けど、答えの出ない事態(コロナ禍みたいな)に、耐えうる力はあるな。と感じた。

 

人よりバカな分、わからない事が多くて、自然とそうなっただけなんだけどw

 

短気な割には、わからない物をわからないまま抱え続ける力。は、ある。

 

子どもの頃に出会った本(別役実)の意味がわからなかった。

 

けど、好きで。

 

大人になっても、わからないまま抱えていて、少しずつ、知識や、情報が入ってきて、ああこういう事だったのか。

と、10年以上経ってから理解したりする面白さを知っている。

 

それが可能なのは、明日は来る。

と信じていられる環境にいられるからなのか。

 

時間の感覚が、人よりゆったりしているからなのか。

 

いつか解る。と信じているからか。

 

わからないけれど。

 

わからない事を、わからないまま抱えて、

あーだこーだ自分の内面で考察している面白さを、感じているからかもしれない。

兼業主夫って言わないよね。

専業主婦は、年収にすると300万という話。


もし、仕事だったら… 顧客の要望に答えられる家事になっていなければならない。


食事も顧客が金銭を出しても良いと満足出来るレベルでなければ、 依頼してもらえないだろう。

(他にサービスが無かったり、 そのサービスを受けざるを得ない状況の顧客なら別として)


付加価値として、 栄養学を基本とした健康管理を任せられる食事であれば、 売りになる。

 

ご近所付き合いも、地域社会で心地よく過す為に、 良好な関係を作れるくらいなら価値もあるだろう。


ビジュアルが良かったり、そうでなくても癒される存在だったり、 カウンセラー的能力が高いとか。

床上手であれば、300万円以上の価値がある。


ずっと同じで飽きるようなコミュニケーションしかとれず、 心が通いあえないとしたら…

お金を払ってプロに性処理して貰う方がストレスもないのではなかろうか。


また、仕事なら、仕事内容や、 人物が気に入らなければ変えてもらう事が出来る。

より良いサービスに乗換られる。


しかし、夫にとって専業主婦は、仕事に不満があっても、 コミュニケーションが合わなくても、夜の生活をする気にならなくても、したい時に出来なくても、 妻として契約した内容を執行しなくてはならない。


家族にとって、重荷になるような専業だとしたら、どうだろうか。


片付けが行き届かず、炊事洗濯も満足に出来ていず、 夜も共に過す気にならず、コミュニケーションも気を使う。

家にいる方がストレスが溜まるような状況に、 300万も払うだろうか。


もし、仕事だったら、職務怠慢だろう。


専業主婦(主夫)は、住む家の心配をせずに済、 子供の成長を見守れる。

予算があるとはいえ光熱費も払って貰える職場で、 年収300万も貰える仕事が世の中にどれくらいあるのだろうか。


満員電車に乗らずに済み、天候が悪い時も、 エアコンの効いた部屋で快適に過せる。


そう思うと、専業主婦は、300万の年収の仕事をこなしている。というのは、少なくとも私の話ではないな。と思う。


所謂、300万の年収の価値のない主婦は、 常に顧客が満足出来る仕事が出来ていないストレスに晒され続ける事になる。


夫は、良識的であればあるほど、 働いて欲しい状況になっても働けとは言い出せない。

嫁を養える自分になろうと更なる努力をし、 妻を重荷にするだろう。

重荷にしたくないから、養っているプライドに変える。


仕事(家事)の出来ない養ってやっている妻が、 ちょっとでも気に食わない態度をとれば、 普通なら気にならない事でも癇に障るようになる。


契約違反にならない範囲で、妻以外の女性や、 飲み会などの物事でストレスを発散しなくてはならなくなる。


妻が夫にとって、癒しであれば、 300万以上の価値があるだろう。


ただ、いつもそうであるとは限らない。


たまに、そうであり、時には、ストレスの要因になるものに、 誰がお金を払って仕事を頼むのだろうか。


世の中には、 お金には替えられない支えとなっている妻もあるだろう。


ただ、私は残念ながら、そういう妻にはなれていない。


ひたすら夫に気を使いながら、生きなければならないペットか、 下僕のような心持ちで、 愛を失わない努力をお互いにし続けるのだ。


誰にも文句を言う訳にもいかない。


自ら選んだ道で、家族と幸せになる為に結婚したのだ。


その努力不足は、私の問題だ。


社会が手を差し伸べても、 その手を取るか取らないかを選択出来るのは、個人だ。


誰も解決出来ない。


それでもなお、専業主婦は、 年収300万と言い続けるのだろうか。


むしろ、どうせ専業主婦を仕事として年収にするなら、 年収1億以上の価値があるオールラウンダーな家政婦レベルになりたいものだ。

 


育児は、プロ顔負けの乳母のように、家庭教師、病院要らず。 教育も勉強がストレスにならない当たり前に身に付く環境( 塾もいらない)、状況、ライフスタイルにして。

日常の中で、運動を取り込み、ご近所付き合いも潤滑に、 子どもの友人付き合いに悩みながらも共助で解決出来、 地域で絆を深め。

DIYはお手の物、インテリアコーディネートに家庭菜園や、掃除、 洗濯もお金を払ってプロの手を借りなくてもコナセル腕前。

そんな中でも、女を失わないスタイルや、見た目を維持し、 夫にとって可愛く有り。

周りから憧れの的で見られながらも、 夫以外になびかない従順さを持つ。

食事も、外食する気にもならない家族の好みと健康に則した、 満足感を与え、かつ食育にもなっている。

限られた予算で宮廷料理人のような食事。

子どもや夫のカウンセラーであり、 自分の健康維持とご機嫌取りは当たり前に出来ている。

夫がいざ、働けなくなった時は、 いつでも大黒柱になれる経済観念と労働力を維持し、 稼ぐ力も持っている。

 


とかいう専業主婦だったら、きっと、 300万どころじゃない。

 


そういう相手じゃ窮屈だ。

と感じるかもしれないけれど。

窮屈さすら感じさせないプロだったとしたら、居心地良過ぎて、 その人が居ないと生きて行けなくなりそうですよね。


それくらいの働きを社会でしたら、 どれくらいの価値になるのでしょう。


また、そういう人を結婚相手にする。

というのは、自分はどれくらいの働きが出来る人間だったら、 良いのでしょう。


結婚する時に、 そこまで仔細に考えている人がどれほどいるのでしょうか。


何が言いたいかって、お金に換算出来ない想いや仕事を、

資本主義の価値観で換算する事の無意味さと、 それでしか解らないのだとしたら、

そっちの方が問題だって事を伝えたいんですけどね。


こんな書き方で上手く伝わるのかしらね。。。

知性格差

静岡の川勝(元?)知事の職業差別的な発言から、日本全体にハッキリとは表れていないけれど。

存在している知性格差について、語られた記事があった。

 

川勝(元?)知事の発言は、言葉選びの間違いにも思え、辞めるほどかな。と思うけれど。

 

無意識の見下しが、表面化した。

と言われたら、本人リベラルと思っている人ほど、女性蔑視する(守らなきゃとか、対等に扱わなくてはダメな力の弱い人たちみたいな)意識が存在するように。

 

差別意識など無い。と言い切る辺りは、ちゃんとご自身の意識を振り返っていないな。と感じた。

 

世間が言うような極端な差別意識は無かったにしても、無自覚な差別意識微塵も無いかを、振り返るのが謙虚さではなかろうか。

人の言葉を聞く耳を持つ、そういう姿勢こそ、差別意識を減らしていくのだとしたら。

 

やはり、川勝さんに、記者や世間より自分の方が正しい。という頭の高さは否めないな。と感じた。

 

最近の農業には、東大出て従事されている方もあるから、頭脳労働が出来たらより活性化される分野であるのにな。とも思う。

 

とはいえ、経歴を見たら、東大レベルじゃなく、オックスフォードみたいな世界を動かすような立場の人たちと過ごして来たら、当たり前に染み付いてしまうのかもしれない、仕方ない事なのかも、とも思えた。

(こういう感覚を、逆学歴差別とも言う)

 

第一次産業が、肉体労働なのは勿論だけど、それだけじゃ無い仕事になって来ている中で。

 

行政として阻む事なく、そのサポートを的確に出来る頭脳労働と、現場を想像する想像力が、働く方々に、以前以上に求められているのは事実だ。

 

また、見下される立場になって、初めて見えてくる事もある。

 

上からは見えているけど、下からは見えなかったり。

 

下からは見えるけど、上からは見えない事があるのは、身近な所では、上司と部下の関係にも見える。

 

忖度が横行するのも、下にいる人が自己保身から、本来なら進言した方が良い事をしなかったり。

また、上にいると当たり前に得られる情報から、知らない人たちには見えない先が見えているのに、自己責任だからと、助言しないで放置したり。

 

お互いに、どうせ言っても相手が聞かないから。という心理が働いている事は良くある。

 

そこに、川勝さんのような、無意識の見下しが、お互いに無いか。と問われたら、無いと言い切れるものなのだろうか。と思う。

 

世の中に、世の中の役に立つ人間ばかり残したら、どんな世の中になるのだろうか。

生きやすい世の中になると思っている人がいるとしたら、自分が役に立たない立場になる事への想像力が欠如している。

 

その欠如した想像力の人たちばかりで、これから来る予測不可能な未来に、対応出来ると信じられるのが不思議だ。

 

怖いからマイナスと感じる要因を排除したいのだろうけど。

 

私の話など、無知の戯言でしかないんだろうな。と思うけれど。

 

今すぐ直接的に役に立っていなくても、過去に役立って来た方々や、未来に役立つ方々、役に立たない事に意味がある方々などが、ともに存在している世界に生きている。

 

そこに意味を見いだそうとはしないのだろうか。

 

そこを排除した世の中が、人として生きやすい世の中になるとは、とても思えない。

 

光が強いと影が濃くなるように、偏りが強くなれば、歪みが生まれて、世界そのものが壊れてしまう。そんな気がする。

修学旅行

子どものクラスメイトで、修学旅行に行かないという子がいると聞いた。

 

私自身は、ぼっちで学校に行かなくて良いなら行きたくない派だったので、修学旅行に行かないという選択肢があると知っていたら行っていなかったな。と思う。

(義務教育の義務は、大人でなく子どもの義務だと思っていたので、死なない限りw行かなきゃいけないと思い込んでいた)

 

親にボッチかつ、死にたい事などを知られたら悲しむだろうな。と、思い、心を殺して通っていたから。

(私の死にたいは、ほぼ甘えで、人間関係で上手く行かない人間の未来に希望も抱けなかったし、思うように生きられないから死にたい。

なので、環境的には恵まれていた。

精神的に残念な奴なだけで、本当にセンシティブで物理的にも差し迫っている方々と同じではない。環境だけの問題でもないし、差し迫って無くても、ポッとあっち側に行っちゃう方もあるけど)

 

周りが心配したり、可哀想な人と思おうが、その方が気が楽で、息がしやすい→生きやすい。

って事もあると思っている。

 

そもそも、四半世紀経って、ボッチの修学旅行の記憶なんて、本当に無い。

記憶力悪いのもあるけど、頑張って思い出そうとしたけど。

宿で幽霊怖いという子に、怖くないよ。と話したけど、通じなかった。っていうどうでも良い記憶しかない。

どこへ行き、何を見て、班が誰とかも、思い出せない。。。

 

感性を磨くための機会に…って記事を見たけど、若さって、日常の何気ない中にも感性が磨かれる要素が沢山あるのよね。

 

BBAやジジイが、なぜBBAやGGIかって、

日常の中で感動出来なくなって来るからよ。

 

旅先が、感性を磨く事はあるけど。

嫌々行く、団体に合わせた修学旅行で、流れるように観光地を巡り、計画こなすスケジュールの中で、どれくらい効果があるのだろう。

 

むしろ、同じ予算でも、身近に感性を磨けるものや、磨き方を学べる所があるのじゃないかとすら思う。

 

団体生活を学ぶ集大成とかならわかるけど。

 

そんなものだから、行きたくないものを、無理に行って楽しめるとも思えないし、後で後悔するとも思えない。

 

行かなかったら、行ってたらどうだっただろう。と後悔が残るのかもしれないけど。

行っても、行かなくても良かったなと後悔するとしたら、どっちの後悔がマシか。

ってくらいなものだと思う。

(楽しみにしている人や、行くのが当たり前で行かない発想が無い人は別よ)

 

ただ、細かな事情を知らないので、金銭的に厳しいから行かないとかなら、配慮がいるな。と思う。

 

不登校ではなく、たまにカウンセリングや、保健室登校のような、教室に行かない登校をされているらしい。

 

が、それまでは、普通にコミュニケートしていたし、遊びの誘いもあったりしたので、どうしたのかな。と気になった。

 

かと言って、子どもも、事情を聞くほど親しい訳でも無さそうで。

 

私もお母さんに一度しか会ったことがなく、突っ込んで聞くのもな…けど、力になれる事があったら、力になれたらな。と気にかける事しか出来ずにいる。

 

とはいえ、この赤の他人の無駄な気遣いが、心地悪さを感じさせたり、逆に、自尊心を傷つけたりしてしまう事もあるから。

 

むしろ、大丈夫。心配ない。

と、余計な気を出さずにいる方が、助かるって事もあるよね。と、心定まらずにいる。

 

力になれないなら、余計なことしない方が良いのかな。

 

あー自分にイラつくわ

ネット広告

私のセキュリティ対策が緩すぎるのもあってか。

色んなサイトにアクセスしちゃうからか。

 

クッキーが増えているからか、

最近は、広告で、記事が読めなくなってきた💧

 

そういう広告が入らないようにされている自社の広告だけ出るサイトなら良いのだけど。

 

どれが、記事でどれが広告かわからないくらい広告が出過ぎる(所謂、ポップアップ広告)と、記事を読むのを諦める。

 

けど、広告アクセス?見たカウントはされるだろうから、そんな見る側の不快感など関係なく、スポンサーから支払いを貰っているのだろう。

(アクセスしないとカウントされないらしいけど)

 

バンバン記事を読めなくし、ネットにアクセスする事すら、辟易させて、私の視力回復に協力しようとしてくれているに違いない。

 

広告が邪魔で、記事が読みたきゃ、金払いな。

って、所場代か⁈ヤ◯ザか⁈

 

広告のお陰様で、無料でこちらはシステムを使わせて頂いているので、広告に文句がある訳では無い。

 

記事が読みたくてサイトに行くのに、

広告で読めなくなったら、行けないよ。

 

通行止めになっている道が通れないのと同じ。

 

通行止めって知らないから、行くけど。

 

行ったら看板だらけで、安全に通れないんだもん。

 

それって、広告の機能を成しているの?

 

まあ、目の前の給料が増えて、食べていけたら良いのだろうから、それで良いのかもね。

 

今は、ネットやスマホを使わない世界なんて、全く想像も出来ないし、発展こそすれ、使わなくなる世界なんて来るわけがないとしか思えない。

 

けど、高度経済成長期、車だって、使わない世界なんて考えられなかったけど。

今は、様々な要因から、減っている。

 

車に乗る人が減ったように、広告を必要とするネットサイトそのものを使う人が減るかもしれない。

 

自分たちが生活していく分だけ稼げたら良いのだもの。

 

そんな先のことなんて、誰もわからないし。

関係ないんだろうな。

 

だけど、やっぱり、業界を盛り上げる意思を持っていたり、好きだったりする人たちは、見ている所が違うだろうから。

 

ユーザーの使い方含めて、改善して行こうとされるんじゃないかしら。と、思ったりする。

 

そういう人たちの良心が、急激な衰退を、緩やかな衰退に変えたり、衰退を防いだりしてくれている。

そう感じている。

辺境の地

大昔、展示会で海外からの参加者と食事をする機会があり、フランス人とルクセンブルク人と一緒になった。(気持ちだけの辿々しい英語を友に)

 

無知な私は、ルクセンブルクが何処にあるのかも知らなかったし、どうして、その国の役人だか公務員だかが、上から目線なのかもわからなかったけど。

 

無知な日本人から見たら、ルクセンブルクって、何処⁈って感じなのを、ヨーロッパ中心主義感覚が当たり前の人たちには、東洋の辺境の地の野蛮な人種くらいにしか見えていなかったからだろう。

 

どうして、ルクセンブルクがそんな感じでいられるのだろう。と調べたら、スイスにやり方が近いイメージで、金融や、ICT(よくわかって無い)に力を入れていて、ヨーロッパのお金持ちの銀行状態な裕福な国だからだと知る。

 

自分たちが、学校で古文みたいに一律に習うラテン語を使って、お前ら知らないだろ。みたいにしてくるのバカなのかな。と思った。

 

国の違いによる文化の違いを楽しむ知能が無いと宣言しているものなんだけど…とちょっと呆れた。

 

日本人でも、社交ダンスも出来れば、ラテン語も出来る方もあるので、確かに、私の無知もあるけれど。

 

たまたま知っていたラテン語話したら、ギョッとして、極東の頭の軽い小娘と思って見ていたからなのか、こいつ何者⁈みたいになったり。

 

話してる中で、僕は国に美人な婚約者がいるんだ❤️とか話初めて、幸せ溢れてという感じなら、離れていて寂しいね。とか話せたのだろうけど。

微妙に牽制?みたいなのしてきて、私、そんな風(好意を抱いているよう)に見えたのか?と、キモかった。

 

私の感じが悪くて、マウント取りたくなる雰囲気だったのかな。

たまたまその時のルクセンブルク人がそういう奴だったって、だけかもしれない。

 

にしても、あれが公務員なルクセンブルク

と思ってしまったから。

 

日本の役人さん、公務員さん、海外に行く方々が日本の印象を作る事を思うと、袖触り合うも他生の縁、快い関係作りをよろしくお願いします🍀と願ってしまう。

 

大分昔だけど、ドイツで、日本人と言うと、対応や信頼度が違ったので。

(その頃は、中国への信頼度が低い感じがした。今はわからない)

 

それは、私ではなく、これまでに培って来てくださった日本人の方々の努力の賜物だわ。と感じた。(バブル期は悪くなったけど)

 

今の私たちは、その努力の上にある事を忘れて、胡座をかいていないだろうか。

 

今一度、彼らが地道に作り上げた日本人の在り方を、取り戻し、強かに真摯に世界と付き合って行けたら良いな。と辺境の地から思う。

 

⭐️自分の当たり前に与えられた環境で得たものを、知らない人がいたとて、見下す人間にはなるまい。

 

言わなくとも、え?とか、わかろうとせず、理解が及ばないと感じたり、無意識に心を動かしがちな気がするから。

キモかった出会いを反面教師にして、糧にしよう。

罪悪感

産後、コミュニケーション齟齬から、離婚も過っていた頃に、親も解らなかった私の気持ちを汲み取ったメッセージをSNSでくれた人がいた。

 

知人から、人の心や身体の不具合を、自身の身体の痛みで受け取り治せる人がいる、と聞いていて、私自身、側に具合が悪い人がいると移るというか、共鳴して具合が悪くなるので。

 

その感覚が、思い込みや勘違いという見方以外で知ることが出来るのではないか。

煩わしいとしか思えなかった感覚を

世の中に活かして、助けられてばかりだった人たちに、恩返しする事が出来るのではないか。

と、講演会に伺う予定でいた人だった。

 

当たり前だけど、代替医療には色々あるので、相手に取り込まれ過ぎないように、多少は警戒して会に行った。

(そうは言っても、メッセージで大分感動しちゃってw会いたい気持ちのが強かったと思う)

 

如何にもな、宗教的な白い服とか、占い師的なビラビラした格好の人だったら、帰ろうと思っていたけれど。

 

普通の人だった。

 

見た目で脅かすような人じゃなくて良かったと、ホッとした。

 

会った時は、途中から入ったので、何やら他の方の話の影響から、倒れていらしたから、顔は見えなかったのだけど。

 

あれから、十数年。

 

お陰様で、離婚もせず、まだ多少、夫とのコミュニケーション齟齬があり、お互い微妙な時はあるけれど。

 

産直後に感じた夫への嫌悪感、不信感、怒りなどは、大分改善された。

 

熟年離婚があるように、産後の恨み辛みは、男性にはわからないだろうが、世の多くの母たちは、夫を諦めて、60,70になっても溜め込んでいる事が多いことを思うと。

 

早い段階ですれ違いを回避出来たことは、本当に凄い事だと思っている。

 

また、子どもの不調は、親の心の影響。

と、師匠が、私の心の在り方を変えられるように、長らくサポートして、ひたすら夫の見方を変えようと心砕いて、良い所を伝え続けてくれたお陰だと思っている。

(師匠は、この頃、夫には会ってないが、私の話から汲み取れる人生経験と人間力がある)

 

とはいえ、この話を他の人にした所で、夫婦には波があるから、自然と落ち着いたら良くなるとか。

 

私と同じように、産後鬱になりかけたママが、

私は友達が気がついてくれて、行政にサポートして貰えたから。

(も、じゃなくて、は、がポイント)

と話していて、私も師匠に助けられて良かったと思っていますけど。と思いつつ。

(そのママは、師匠に会っている)

暗に、あなたと違って、個人カルトに洗脳されなくて良かった。という本音を感じた。

 

確かに、心の掴み方や、やり方は、カルトや宗教と同じだなぁ。と思う所はある。

 

ただ、企業でも、研修でやったりするコーチングや啓蒙は、学校含め、ある種の洗脳であり、宗教の手法とも言える。

 

ビジネスでも、ファンを信者化させる手法がある。

 

世の中に悪影響を与えたり、混乱させたりするものでなく、逆に、引きこもっていた人が、有名大学に入ったり(元来優秀だったのもある)、小学校から不登校だった子が、大学を出て保母さんを目指したり。

 

寝たきりになりかねない人に、身体はキツくても医療に頼らず、働く勇気を届けて、働いていたり。

 

人の命を活かす。

をモットーに、世の中にプラスになる事をされている事を思うと。

 

個人カルト的だからと、一概に切り捨てないで欲しいなぁ。と思うけど。

 

洗脳されて、操られているかもしれない(師匠はそんなつもりなく、ひたすら人の為の心で接しているだけなんだけど)私が伝えても、難しいのよね。

 

医療に見放された人に希望を届けようと、意思を持って、大丈夫、生きられるよ。

(想いや、愛はエネルギーで物質にも影響を与える事、人の為の心が奇跡を呼ぶという体験の元と、)

と、サポートされて来た方々の中でも、亡くなってしまった方々もある。

(元来余命宣告されていたりするので、医療的にもそれが要因という状態ではない)

 

悲しいのは、師匠が後ろ向きな心を前向きにするサポートと、沢山の時間を割き、思いやりを向けて状況が変わっても、

医療的な奇跡だったり、自分で気付いたり、思い付いた自然な流れと区別がつかず、前向きな心をサポートして貰ったから、良い環境や出会いに意識が向くようになった。

という師匠のお陰様がある事に気が付かない方々も多い。

 

皆さん、師匠に有り難く思っているけど、お陰で良くなった。という実感が薄いため、他の人にもこの体験を伝えようとか、知って貰おう。になっていない。

 

また、師匠もその事を、感じながらも、私のお陰よ。なんて言うのは、ただの親切の押し売りという人の為、経済的に厳しくとも何も言わない。

 

それが、わかりながらも、少人数(10人くらい)で、会の開催を2月に一回、飛行機代二人分と宿泊費5人分を割る経費を負担するのは、個人的にキツイ。

(師の神曰く、一月に一回が理想と言われていたが、現実厳しいと、2月に一回になる。とはいえ、飛行機の席もランクアップだし…私は、2万くらいしか出してないけれど)

 

恩知らず。

と言われているけれど、教えて貰えるだけ有難い。

 

出来たら、安い交通費と宿にしたいが。

 

師匠の方針が人のためなので、自分の懐具合で、他人を安く働かせない。人も成り立つ金額で。というのがあるので安ければ良いって訳にいかない。

 

安くするときは、こちらの懐具合に配慮してくださって、受け入れて貰う。という事になる。

 

(とはいえ、何かの直感で師匠も割引品を買うので、絶対定価で、とかでないのが、難しいのだ。人の為の心であれば、自然と他人を痛めない選択が出来るらしい。)

 

そもそも、病のみならず、想いがあれば、地球環境も改善出来る。というので、師匠自身は、東京の地震を止めに来ているそうなので。

 

そういう自分たちの為に来ている人に、安い場所という発想や心で良いのか。と教わるので、そういう訳にも行かなくなる。

 

確かに、地球を守ってくれているのが真に腑に落ちていたらそうだろうが。

 

師匠は、かれこれ数十年この活動をされていて、地球環境が改善されている様子が感じられない。

 

師匠が生まれていなかったら、日本はもとより、地球ももう無いレベルだったかもしれない。と考えたら、師匠のお陰で悪化しながらも、ここまで生き延びた感謝になるのだろう。

 

ただ、なんか、それは、気持ちが悪い。

 

そうなったら、隷属したり、下僕化しそうで、死にはしないけど、ただでさえヤバイのに、更にヤバイ人になりそうだし。

 

師匠の愛が効果を発揮出来ないのは、(311や、能登地震など)師匠に無自覚でも、不信や、反発、邪魔をしたい心を動かしている人がいるからだそうで。

 

私自身、公にしたり、人に公言すると上手く行かない事が、しないでやるとスムーズに上手く行くので、その感覚は、わからなくもないけれど。

 

じゃあ、黙ってやったら良いのでは。

と思うけど。

 

それじゃダメで、人様を感謝不足の恩知らずにしてはいけないと、難む心のエネルギーを受けても、健気に公にして、地球を守る心を向け続けている。

 

マインドコントロールはされているし、金銭的には借金はないけど、キツイ(今はセーブしているけれど、陶酔したら、会以外に使えなくなる)けど。

 

依存状態ながら、心の安定は得られているし、離婚も避けられ、私がシングルマザーになっていたら、税金に助けて貰わざるを得ないと思うので、それがない分、社会貢献も成されているかもしれない。

 

そう考えると、他に勧誘しなければ、私だけの問題で、世の中に迷惑かけず、個人カルトでも、行き続けても良いんじゃないかと思うけど。

 

以前は、話に出なかったけれど、師匠の後継に、お子さんを添えたい。(これは、師匠からしたら、自分を頼りにしている人たちが、路頭に迷わないように、自分以上に人様へ愛情深い我が子に引き継いで貰いたい。という印象)

と話はじめるようになった。

 

私は、良し悪しに関わらず、少なからず恩を感じているので、お子さん、お孫さんと、サポートさせて頂こう。という想いでいるけれど。

(サポートしなきゃならないようなご家族でなく、ちゃんと自立され、働かれている方々で。むしろ、私のがサポートいる身ながら)

 

会として、続かれるとなると、ちょっと厳しいものを感じている。

 

夫婦仲をとりもち、健康もサポート(普通に不具合有りながら、不具合と見ず人間性を高める学びと見る為、病ではない)し、子どもの未来も守ろうとしている人だから(と私は受け取っている)

 

夫にも、子どもにも、如何に師匠に恩があるか伝えるのが、筋である。と教わる。

 

確かに、確かに、確かに、そうなんだけど。

 

師匠が与えてくれているものが何なのか、

悲しいかな人間性が低すぎて解らないのよ涙

 

夫に、私が会に行って変わったか聞いても、変わらないって言うし。

ただ、妻がストレス発散するにはいいと思っているらしい。

(最初は、良いものだから、社会全体に広がれば、私と似た悩みを持つ人たちも楽になるなと、会の告知などしていたが。今や逆にストレスになっていると言っても、お前の性格の問題だと、伝わっていない。否めないけど)

子どもには、伝えつつも、暫く行ってなかったけど、行こうかな。と言い始めた。

 

ただ、今の師匠だけでなく、お子さん(ゆくゆくは、お孫さん)に引き継ぐとなると、宗教2世のように、子どもの選択肢を奪ってしまう懸念も感じる。

 

というか、両親が一番懸念している。

また、家族含め、他人を勧誘しないよう言われ、子どもも連れて行かないように言われている。

(反発も、会によれば、こちらの覚悟の問題で、理解して貰う努力不足という、私の課題の一環なんだけど。結局、それで、当たり障りなく付き合う人と、関わりを断つ人が出るだけなんじゃないかと思う部分がある)

 

後継を我が子にという話を、周りに請われて、こちらが請うて、そうなるなら解るが、誰も何も言わない内から、師匠が言い出すのが怖い。

 

師匠にしたら、訳わかっていない人たちを、より良き心の世界に導かねば。という使命感から、こちらが請うのを待ってはいられない。

という部分もあるのだろうと想像しているが。

 

傲慢で、恩知らず、感謝不足(と教わりながら、改善出来ていない)私程度では、地球を守るだけのサポートを見えない世界から得られる大きな器の師匠の想いを推し量るのは、難しい。

 

感謝出来なかった後悔を残させない為に、師匠は、感謝不足を伝えているのだけど。

 

親への感謝も足りてないのに、見えない力で世界を守っている人への感謝に足りる事なんかあるのだろうか。

と思えば、子々孫々、崇め奉り、下僕化になっちゃう気がして。

 

人様まで、下僕化させて良いものか。

 

心の師に恩を感じながらも、

簡単に人様にお伝え出来ずにいる。

 

師匠は、皆が、師匠を独り占めしたい独占欲(確かに、聞き上手なので頼りになる)から、人に分けられていない。と言って(くれて?)いるが。

 

他人に伝えて地域社会から追い出されるかも…という自己保身もあり、自己中という部分では同じだから、反論はないけど。

(というか、私の元来の性格の問題もあり、既に孤立化している)

 

治るよ。と師匠が言ったけれど

(師匠は、間違った事は口に出来ないように。と天に祈り、口に出来る事は、間違い無い。と信じている)

私も、治るんだ。と思っていた人が、亡くなってしまい。

(癌の再発だったし、最終のケア病棟に入られていた)

 

そんな現実を幾つも目の当たりにしながら、どうして師匠は、希望を届けたい一心だけで、治ると言えるのか。

その想いの大きさ、治るにする意思に、ついていけない気持ちがした。

師的に見たら、怖気づいた。という事になるのだろう。

 

これだけ書いて、心の師は、ただただ人の為。

の想いだけで、生きているので、そういう人に、こういう想いを抱いている自分も嫌になる。

 

だから、会に行くのをやめようとしたけど。

 

師匠は、人との縁を自分から切らない。

をモットーにされているので、そのときは、

師匠から、もう来なくて良い。と言われたけど。

 

師匠の気持ちを汲み取られ、私と家族を見捨てない気持ちから、お子さんが、まあまあ。と宥めた事で、未だ、会に参加している。

 

この時の、お子さんの私たち家族への愛情をどれだけ解っているか。と言われたら、わかっていない。

 

師匠は、自分の人生は、幸せで面白い。

と経済的に辛い時も、いつもニコニコ楽しみ見つけ上手、感謝見つけ上手なのに憧れはするけれど。

 

師匠みたいになれるよ、出来るよと聞いても、

私みたいな人非人(師匠からしたら特に)に、愛情を注ぎ続ける事が出来る気がしない。

 

分からず屋は、とっくに見捨てて、解る人にシェアして、解った人から、より沢山の人に浸透していく方が良いのに。と思う。

 

師匠曰く、解らない人にも、解るように伝えることが、人間力を磨く。

そうなのだけど、師匠の人間力は、充分磨かれているから、私みたいな分からず屋は、見放して貰えた方が、正直気が楽だ。

 

そんな甘えた事を思うような状態を、ズルズルしているのも気持ち悪い。

かと言って、どっぷり浸かる覚悟もない。

 

今の関東や台湾の地震も、師匠的には、不信や反発を向け感謝を忘れた私の悪意のせいなんだろうな。

 

お話を最初に聞いていたころは、確信は無かったけど、師匠が止められる可能性が本当にあるなら、人として、その可能性を追求、研究して社会に役立って欲しい。と思っていた。

 

地震を止める意思を持つ。のだそう。

ただし、311の時に、私は、師から、あなたは想うのを辞めて。と言われたので、控えている

まだ、心がクリーンになっていない(過去に溜めて来たネガティブな想いや業を振り返っていないから)

実際に効果があるのか、見えないけれど、想いを向けた師には解るらしい。

こちらも、わからないながら、思った所でダメ元なので、心をクリーンにして、思えるようになって、思ったって害は無い。

と思っていた。

 

正確には、それだけ想いには物理的に影響する力があり、だからこそ、表に出さなくても、自分の心の在り方には気をつけないといけない。

という教えだそうなんだけど。

 

自分の想いの影響はあるかもしれないが、地球を守れるくらいの人の想いを阻むほどの力があるとは、妄想でも、納得出来ないんだよなぁ。

 

会に行けば行くほど、自分が悪者になって、師に感謝より、申し訳なさと罪悪感を抱く。

 

ただ、素直に感謝にしたら良いと言われているけれど。

 

愛情に胡座をかいたり、甘えでは、ダメだし。

 

ただ、感謝してたら良いって訳にもいかないから、なかなか進歩していない。

 

そんな会に誰が来たがる⁈だよね。

 

師個人に会いに行く人は、遠方からも沢山いるのだけど。

 

私がいる会は、ドンドン人が減ってる。

 

あーはやく、辞めたい。

こんな気持ちで参加していて、本当に申し訳ない。

 

自分、いい奴とも思っていなかったけど、

嫌な奴なのを突きつけられて、辛くてますます行きたくなくなる。

 

本当に、そこで変わって、いい奴になれたら良いけど。

(最近、何が本当にイイヤツなのかも解らなくなってきた)

十数年変わってないしな…どうどう巡り。