専業主婦は、年収にすると300万という話。
もし、仕事だったら… 顧客の要望に答えられる家事になっていなければならない。
食事も顧客が金銭を出しても良いと満足出来るレベルでなければ、 依頼してもらえないだろう。
(他にサービスが無かったり、 そのサービスを受けざるを得ない状況の顧客なら別として)
付加価値として、 栄養学を基本とした健康管理を任せられる食事であれば、 売りになる。
ご近所付き合いも、地域社会で心地よく過す為に、 良好な関係を作れるくらいなら価値もあるだろう。
ビジュアルが良かったり、そうでなくても癒される存在だったり、 カウンセラー的能力が高いとか。
床上手であれば、300万円以上の価値がある。
ずっと同じで飽きるようなコミュニケーションしかとれず、 心が通いあえないとしたら…
お金を払ってプロに性処理して貰う方がストレスもないのではなかろうか。
また、仕事なら、仕事内容や、 人物が気に入らなければ変えてもらう事が出来る。
より良いサービスに乗換られる。
しかし、夫にとって専業主婦は、仕事に不満があっても、 コミュニケーションが合わなくても、夜の生活をする気にならなくても、したい時に出来なくても、 妻として契約した内容を執行しなくてはならない。
家族にとって、重荷になるような専業だとしたら、どうだろうか。
片付けが行き届かず、炊事洗濯も満足に出来ていず、 夜も共に過す気にならず、コミュニケーションも気を使う。
家にいる方がストレスが溜まるような状況に、 300万も払うだろうか。
もし、仕事だったら、職務怠慢だろう。
専業主婦(主夫)は、住む家の心配をせずに済、 子供の成長を見守れる。
予算があるとはいえ光熱費も払って貰える職場で、 年収300万も貰える仕事が世の中にどれくらいあるのだろうか。
満員電車に乗らずに済み、天候が悪い時も、 エアコンの効いた部屋で快適に過せる。
そう思うと、専業主婦は、300万の年収の仕事をこなしている。というのは、少なくとも私の話ではないな。と思う。
所謂、300万の年収の価値のない主婦は、 常に顧客が満足出来る仕事が出来ていないストレスに晒され続ける事になる。
夫は、良識的であればあるほど、 働いて欲しい状況になっても働けとは言い出せない。
嫁を養える自分になろうと更なる努力をし、 妻を重荷にするだろう。
重荷にしたくないから、養っているプライドに変える。
仕事(家事)の出来ない養ってやっている妻が、 ちょっとでも気に食わない態度をとれば、 普通なら気にならない事でも癇に障るようになる。
契約違反にならない範囲で、妻以外の女性や、 飲み会などの物事でストレスを発散しなくてはならなくなる。
妻が夫にとって、癒しであれば、 300万以上の価値があるだろう。
ただ、いつもそうであるとは限らない。
たまに、そうであり、時には、ストレスの要因になるものに、 誰がお金を払って仕事を頼むのだろうか。
世の中には、 お金には替えられない支えとなっている妻もあるだろう。
ただ、私は残念ながら、そういう妻にはなれていない。
ひたすら夫に気を使いながら、生きなければならないペットか、 下僕のような心持ちで、 愛を失わない努力をお互いにし続けるのだ。
誰にも文句を言う訳にもいかない。
自ら選んだ道で、家族と幸せになる為に結婚したのだ。
その努力不足は、私の問題だ。
社会が手を差し伸べても、 その手を取るか取らないかを選択出来るのは、個人だ。
誰も解決出来ない。
それでもなお、専業主婦は、 年収300万と言い続けるのだろうか。
むしろ、どうせ専業主婦を仕事として年収にするなら、 年収1億以上の価値があるオールラウンダーな家政婦レベルになりたいものだ。
育児は、プロ顔負けの乳母のように、家庭教師、病院要らず。 教育も勉強がストレスにならない当たり前に身に付く環境( 塾もいらない)、状況、ライフスタイルにして。
日常の中で、運動を取り込み、ご近所付き合いも潤滑に、 子どもの友人付き合いに悩みながらも共助で解決出来、 地域で絆を深め。
DIYはお手の物、インテリアコーディネートに家庭菜園や、掃除、 洗濯もお金を払ってプロの手を借りなくてもコナセル腕前。
そんな中でも、女を失わないスタイルや、見た目を維持し、 夫にとって可愛く有り。
周りから憧れの的で見られながらも、 夫以外になびかない従順さを持つ。
食事も、外食する気にもならない家族の好みと健康に則した、 満足感を与え、かつ食育にもなっている。
限られた予算で宮廷料理人のような食事。
子どもや夫のカウンセラーであり、 自分の健康維持とご機嫌取りは当たり前に出来ている。
夫がいざ、働けなくなった時は、 いつでも大黒柱になれる経済観念と労働力を維持し、 稼ぐ力も持っている。
とかいう専業主婦だったら、きっと、 300万どころじゃない。
そういう相手じゃ窮屈だ。
と感じるかもしれないけれど。
窮屈さすら感じさせないプロだったとしたら、居心地良過ぎて、 その人が居ないと生きて行けなくなりそうですよね。
それくらいの働きを社会でしたら、 どれくらいの価値になるのでしょう。
また、そういう人を結婚相手にする。
というのは、自分はどれくらいの働きが出来る人間だったら、 良いのでしょう。
結婚する時に、 そこまで仔細に考えている人がどれほどいるのでしょうか。
何が言いたいかって、お金に換算出来ない想いや仕事を、
資本主義の価値観で換算する事の無意味さと、 それでしか解らないのだとしたら、
そっちの方が問題だって事を伝えたいんですけどね。
こんな書き方で上手く伝わるのかしらね。。。