superaho’s diary

犬も食わない捻くれ+ひきこもり系ポンコツBBAの緩い駄文。

倒れた自転車

小さい頃から、自転車置き場や道で、倒れている自転車を見掛けると。通行しやすいようにとか、自転車の持ち主が戻って来た時、悲しい気持ちにならなくて良いように。と思って起こして来た。

街の風景も、倒れた自転車が放置されているよりも、常に誰かが直して(倒れた状態にならない仕組み作りも大事)、綺麗に並んでいる方が安心感が出る。


そう思って、直して来たけど。

風で倒れたりした物を直している時。

一緒に直してくれる人の方が少なく、大概は我関せずと手伝ってくれない人が多かった。

自分の自転車が倒れていたら、ガッカリした気持ちになるのだろうに…。

人の自転車が倒れているのを直さないのは、どうしてなんだろう。と不思議に思っていた。

(急いでいたり、忙しかったり、他人の物を触るのも自分のを触られるのも嫌とか、其々事情があるのだろうが)

 

ある日、父と一緒に居る時、倒れていた自転車を見かけ、いつものように直すと…。

自分が倒した訳ではないのに、倒した自転車を起こすな。自分が倒したと疑われるから。と、放置するよう言われた。

ああそうか、確かに、自転車を起こしている時、まるで私の問題かのように見られている感じがしていたのは、そのせいか。と知った。(それまで思いもしなかった)

例え、その人が倒したのであっても、側に居たら、手伝ったって、何の損をする訳でもないのに。倒した人しか直しちゃいけないのだろうか。と疑問だったけど。

自分の責任でないものを背負わされる事が嫌って事なんだな。と解釈した。

私自身、良かれと思ってした事に、要らぬ不信を向けられたくなかったので、父の言葉を受入れた。


それから大人になり、ある風の強い日、集合住宅の出入り口付近の駐輪禁止区域に置かれていた自転車が倒れていた。

自業自得だと思ったし、駐輪禁止区域の危険として管理組合に提示しようと思い、スマホで撮影した。

すると、通りかかった集合住宅住人が、私のその姿に呆れたように、倒れた自転車を起こして行った。

私は、自分のした事を責められたように感じて、恥ずかしく感じたが。

同時に、損得でなく、ご自身の良心(正義感?)から自転車を直して行かれる方がある事を知れたのがとても嬉しかった。

(当たり前と思われる方もあるだろうが。私は、その時まであまり見掛けた事が無かった)


こういう方がいらっしゃるなら、世の中まだまだ捨てたもんじゃない。と感じられた事が嬉しかった。(自分をあまり信用出来ていないので、人様の姿から学ぶ)

心の中で、ありがとうございます。と思ったけど、今思えば、言葉にして伝えたら良かったと思う。

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ただ少し気になったのは、もし、私が撮影していなかったら、その人は、自転車が倒れている事に気がついたのだろうか。

多くの人が、意識して見ていない事が多いので、倒れていても気がついていない事が多い気がしていて。

(恐らく、私が思う以上に直されている方々もいて、同じように他者は気付かないと感じられているか。直す事が当たり前で、人様も当然していると感じられている方もあると思うが)

感覚的に感じたのは、おばさんに文句付けられるであろう(撮影していたから)自転車の持ち主に同情し、直されたようにも見受けられたので。

私が撮影していなくても、その方は直して下さっていたのだろうか。と少し気にかかった。

そう思うのは、自分(私)の行為を批判するように、目の前で正されたように感じて、受け入れ切れないからだろうか。(自分のプライドの高さだろうか)とも思う。

 

最近は、卑屈になったり、妬んだり、恨んだり、羨んだりする心を、悪として表に出さなかったり、批判したり、卑下したりする傾向が凄く強くなっている感じがしている。

(敢えて表現することで共感を得ているケースもあるけれど)

表向きや、表現が変わっているだけで、心根に存在している事を蓋をしてしまっているケースを良く見かける。

それ故、表現や、行為が間違いなくても、心根に人を批判したり、卑下したり、卑屈、妬み、嫉み、羨望など、気付かぬ悪意が潜んでいるまま出すので、表現した物とズレた反発や、叩かれたりする事が起こる。

表面や、形で、それを繕おうとしても、根本的な解決に至らず、同じ問題が起こるのは、その為だ。

逆を言えば、心根に蟠りが無ければ、表現をとんでもなく間違えない限りは、多くの人はその心を受け取り、批判や反発に至る事が少ないように思う。

同じように、昔、父から言われた事も、他者は真実を見抜けない。という他者不信を抱かなければ、自分の責任でない自転車を起こした所で、倒した責任を疑われる事もないのではなかろうか。

そもそも人は、それほど他人に興味を持っているのだろうか。

もし、疑うほど興味を抱かれるのだとしたら、それもまた才能ではないだろうか。

大概の人間は、疑いをかけられるほど、他者に意識される事もない。

悪目立ちしないように、目立たない事を意識している人は多いが。

それは、自身が目立たないように意識しているだけ、自分の方を見ているし、他者が目立とうが、目立つまいが、直接関わりのある人間でない限りは、テレビ映像を見ているのと変わりがないのではなかろうか。

名誉な事ではないが、方向性を変えれば、名誉にする事が出来る可能性がある人物である。とも考えられる。

 

元も子もなく言ってしまえば、どんな物事も、受け取り方次第、捉え方次第でしかないのだけど。

 

余計なお世話と感じる人もいるかもしれないけど。

今後は、疑われる事を懸念せずに、街の景観と安全と安心に繋がるように、倒れている自転車を見掛けたら、起こして行こうと私は思う。

風が強くて、起こした方が危ないって場合もあるから、ケースバイケースで。

(こうして、自分の未熟な所、情けない部分、恥ずかしい部分を晒すのは、自分の足り無さを自覚し、変えて行く用。自分にとって、いつまでも、人様に晒して恥ずかしい自分で居なくて良いようにする過程として。そして、何より、うっかり自分は正しい。と思い込まないように、振り返れるように。また、こういった記事からダメな書き手に石を投げる人たち自身の心も、振り返って貰える機会となるように。)